コミュニケーションのかたち

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駅のベンチに座ってスマホの画面を見つめる女の子
 僕の乗った特急列車が停車駅で止まった。窓から見える隣のホームは閑散としていて、数えるほどしか人がいなかった。1番近くのベンチには高校生の女の子が一人、座っているだけだった。
 彼女はじっとしたまま顔に手を当てて、スマートフォンを見つめている。指がほとんど動いていないから、メールを読んでいるのだろう。
 誰から送られたメールなのか、真剣に読んでいる。10代の女の子話題とは何だろう。友達のこと、学校のこと、好きな男の子のこと、部活のことなのか想像は尽きない。メールは”今”を伝えるコミュニケーションなのだ。話したいことをその瞬間に送ることができる。でも、それは特別なことではない。遠くにいる人や、身の回りにいる人とコミュニケーションをとるのはいつの時代でも普遍的に行われてきたことなのだから。
 例えば、数十年前はこれが手紙だった。雑誌に、ペンフレンド募集のコーナーがあって、そこで知り合って人たちが、手紙を送りあっていた。爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」はそれが背景として歌われているのはみんな知っていると思う。
 何のことはない。今でいう、メル友です。掲示板で募集するところも、文通の文化を引き継いでいるではないか。
 もっと昔に目をやると、平安時代の恋人は自分の思いを和歌にしてを送りあった。伝達手段が変わっても、コミュニケーションの本質は変わらない。いつでも、どの国でもみんな、話したいこと、聞きたいことがあって、メッセージを送っている。その各々のコミュニケーションを象徴する姿が、時代の風景として残されてきたのだろう。
 平安時代は、送られた短冊を読む姿。
 中世ヨーロッパでは手紙の封蝋を剥がす姿。
 文通が盛んな時の、ポストに投函する姿。
 そして、今。彼女のスマホでメールを読む姿こそ、21世紀初頭のコミュニケーションのかたちを表現する光景であるのだ。
 この絵も、そう記憶されるかもしれない。数十年後には、ああしてメールをやりとりしてたいよねと思い出される様になるのだろうか。